第16回「德川記念財団コンクール」德川賞

表彰活動

コンクール in 岡崎 第16回「徳川家康公作文コンクール」

德川賞(最優秀賞)

「家康の人生と将棋の対局 ~平和への一手~

岡崎市立三島小学校6年  手島 奏太朗  

 ぼくは将棋が好きです。時間があるとよくおじいちゃんと将棋を指します。勝ったことはまだないけれど、先を読み、戦略を考えながら一手一手打っていくのはとても楽しく、集中できる時間です。

 以前読んだ本で、日本に将棋の文化を根付かせたのは徳川家康だということを知りました。盤上で戦略を考えたり戦意を高めたりする将棋は、戦国武将に好まれたのでしょう。中でも家康は、碁打ち・将棋指しという、今でいうところの棋士のような才能ある人材を選び出し、給与を与え、その地位を確立させていたと言います。将棋という文化を大切にした家康。徳川家康の人生も、まさに将棋そのものだなと思うようになりました。

 家康の幼い頃は、将棋でいう不利な局面です。外祖父の戸田康光の裏切りで織田の人質となり、次には今川の人質となってしまいます。この頃の家康は表にこそ出しませんが、心の中ではきっと「強くなってやる。」「いつか見返してみせる。」と思っていたに違いありません。家康は、今川家の様子を、盤面全体を見るように注意深く観察しました。跡取りである氏真が遊んでばかりいたことから、今川はもうだめだと判断し、信長と手を結んで氏真を倒したのでした。このように家康は、人質時代という不利な局面を自らの力で打開していくのです。

 もちろん、間違った手を指したこともありました。それが三方ヶ原の戦いです。敵の大将である武田信玄は、家康の拠点である浜松城をわざと素通りします。城主としてそれを見過ごしたとあっては、他の大名たちにおく病者だとばかにされてしまいます。家康はそれが嫌だったのでしょう。家臣たちが止めるのも聞かずに、二倍以上の兵を持つ信玄におそいかかろうとします。まんまと信玄の策にはまった家康は、この戦で大敗し、多くの大切な家臣を失ってしまいます。城に逃げ帰った家康は、悔しさと情けなさの中で、自分自身と向き合い、一人、戦の後の感想戦をしたのではないでしょうか。

 家康にとって最も大切な対局。それは、天下分け目の「関ヶ原の戦い」です。この戦いで、家康は勝利を確実にするためにいくつかの布石を打ちました。まず、得意の野戦に持ち込もうとします。はじめに、三成をおびき出すために、上杉を討伐しに行きます。それを見た三成は、家康の背後をつこうと挙兵しますが、家康は方向を変えて引き返し、三成と関ケ原で向き合うことに成功しました。また、小早川秀秋や吉川元春に三成を裏切る約束をさせます。その小早川と吉川の働きのおかげで、最初押されていた東軍も勝てたのです。

 ぼくは先日、家族と一緒に関ケ原の古戦場跡に行きました。家康の本陣跡から古戦場を見渡してみました。もう夕方だったので、戦いも終わった頃の時間でしたが、刀の交わる音や、武将たちの雄叫びが聞こえてくるようでした。家康が勝利を確信しながら、この場に立ち、何を考えていたのか想像すると胸がじんとしました。

最後の難関は大坂の陣です。力で攻めても大坂城を落とせないと考えた家康は、砲撃を昼も夜も休みなく繰り返すことで相手の士気を下げていきます。これは将棋で言えば、いろいろな駒を使って、敵陣を休みなく攻撃し続けるようなものです。城内の士気が下がってきたところで、和議を結びます。そこで一度攻めをやめたふりをして、堀を埋め、大坂城を裸にさせるのです。王である豊臣秀頼を囲う相手の駒を、じわじわと減らす戦法です。そしていよいよ最後の詰めの一手、全軍突撃により、豊臣家を滅ぼし念願の天下統一を成し遂げます。家康は、苦しい人質時代からの夢をついにかなえたのです。

 家康は天下統一を成しとげたあと、将棋を広く普及させました。それには二つの理由があると思います。一つは、物事をいろいろな局面からよく考えることの大切さを、皆に知ってほしかったからだと思います。そしてもう一つは、何と言っても、将棋という勝負を通して、負けることの悔しさや恐ろしさを伝え、平和な世の中を作ろうとしたのではないでしょうか。

 十一月十七日は「将棋の日」なのだそうです。そして、何とおじいちゃんの誕生日でもあります。この日は絶対におじいちゃんに勝ちたいと思っています。おじいちゃんに、

「強くなったな。」

と言われたら

「家康の戦術さ。」

と胸を張って答えたいです。