第17回「德川記念財団コンクール」家康賞宮川

表彰活動

コンクール in 岡崎 第17回「徳川家康公作文コンクール」

家康賞(優秀賞)

矢作川の歴史から学ぶ

岡崎市立矢作北中学校3年  宮川 茉裕 

 

 2020年7月4日、テレビをつけるとそこには衝撃的な光景が映し出されていた。堤防は跡形もなく、球磨川(熊本県)の濁流が住宅街一面を飲み込み、川に架かっていた鉄骨の橋まで流失していた。数日後のニュースで、球磨川の氾濫により死者、不明者が60人を超え、橋が十橋も流失したと報じられた。

 私の住む街、岡崎にも大きな川がある。矢作川は大丈夫なのだろうか。ニュースを聞きながら私は不安を口にした。そのとき、6年生の妹が話し始めた。

「二百年くらい前に矢作川の大洪水があったって、5年生のとき紙芝居を見たよ。矢作東小学校のすぐ近くの大きい宝塔さまは、洪水で死んだ人のためだって言ってたよ。」

私は知らなかった。「南無妙法蓮華経」と書かれた大きな石の塔の前は何度も通っていたのに。まさか、矢作川の氾濫で矢作の町が甚大な被害を受けていたとは・・・・・。

 球磨川の映像と妹の昔話から、すぐ側(そば)を流れる矢作川を詳しく知っておくべきだ。そう思い、さっそく調べることにした。妹から聞いた矢作川の氾濫については、父から市立図書館(リブラ)にある1冊の本『矢作橋のたもと』を紹介してもらった。しかし、禁帯出本で、コロナ禍のため閲覧は途中で断念した。そこで、妹の小学校へ訪問し、紙芝居を見せていただいた。矢作地区を守るため、岡崎城から役人が派遣されたこと、溺死者17人にのぼったことなどがわかった。小学校の先生が、

「何か質問はありますか。」

と聞いてくださったので、私は『矢作橋のたもと』を読んで気になったことを尋ねた。

「家康公が矢作川の氾濫をおさえる工事を命じたと書いてありますが、江戸に行ってしまった家康が本当に命令したと思いますか。」

先生は穏やかにこう答えてくださった。

「岡崎は家康の故郷(ふるさと)ですから。江戸に行ってしまってからも、故郷(ふるさと)を思う気

持ちは強かったのでしょうね。」

 江戸に上った家康公が心配するほどの矢作川と岡崎の町。私は、これをきっかけに本格的に矢作川の歴史を調べ始めた。

 矢作川の大規模工事の初めは、1594年。秀吉の命令で岡崎城主田中吉政が中流域の河道を一本化した。秀吉はその前日、自分のふるさと尾張の堤防工事を田中吉政、原長頼ら4人に命じている。ふるさと優先ということだろうか。かつては矢作川に堤防がなく、家康公も築堤を考えたが実現していなかった頃のことである。土木工事に長けた吉政が矢作川工事の責任者であったにもかかわらず、翌年1595年には完成した堤防が洪水で損害を受け、今度は原長頼を責任者とし再度築堤している。これらの矢作川築堤工事は、水害防止と耕地増加が主目的であったが、十分な効果は上がらなかったようである。なぜなら、当時は現在の矢作古川を流路としており、大水になると旧幡豆郡の川幅の狭い土地から2里(8キロ)上流の矢作まで水が逆流し、堤防が各所で決壊したからだ。この現象は、球磨川の氾濫を検証するニュースで度々耳にしたバックウォーター現象のことだ。

 時は徳川政権になり、1605年、家康公は米津清衛門に命じ、バックウォーターの引き金となる下流域で、新しく川筋をつけかえさせ川幅の広い現在の矢作川となった。

 国土交通省のホームページでは、なんと縄文時代から矢作川の川筋がどう変化してきたかを見ることができる。岡崎市のホームページでは、大正7年から平成28年までの風水害による被害状況を閲覧できる。平成時代では市内の河川破堤は三回あったが、矢作川ではない。四百年も前から、岡崎の人々の暮らしと命を考え、河川工事を繰り返してきた家康公をはじめ多くの人々に感謝したい。

 しかし、そこで、忘れてはいけないことがある。川はもともと、気候により自由に道筋を変えて大地のあちこちを流れていた。かつての矢作川も、自然に身を任せ、幾筋もの流れがあった。その水で農業をして生きてきた。家康公の力で矢作川は整備されて、川幅の広い美しい矢作川となり、人々は安心して暮らせるようになった。しかし、私たちは今、豊かに水の流れていた川筋を無視して蓋をし、埋め立てて生活している。開発に力を入れ、建築物が乱立していく街並を、家康公は天からどう思って見ているのだろうか。