第17回「德川記念財団コンクール」家康賞天野

表彰活動

コンクール in 岡崎 第17回「徳川家康公作文コンクール」

家康賞(優秀賞)

家康はなぜ耐えた

岡崎市立三島小学校6年  天野 慶之 

 

 ぼくは短気です。ぼくは兄がいて、兄とよく喧嘩します。

 「それぼくのものだぞ‼」

 と、言ったりして喧嘩します。すると父が、

 「もっと挑発に耐えてみな。」

 と言います。でも、なかなかすぐ怒るくせが直せずにいます。

 「耐える」

 という言葉を聞くと、よく家康のことを思い出します。でも、なぜ家康は耐える人間なのか気になりました。だから、家康のことについて調べてみました。

 家康は、松平広忠の子で初めは松平竹千代と名乗っていました。しかし、3歳の時、母と生き別れて、六歳の時には、織田信秀の人質にされました。そして、8歳で父が殺され、今川義元の人質となり、竹千代が成長するまで三河を奪われました。

 ぼくは、「物」が奪われて怒っています。しかし、竹千代は「自分の国」が奪われても怒らずに耐えていたのです。更には義元が戦死した隙(すき)にすぐ三河を回復しました。

 つまり、家康は時が来るまでずっと待つが、やる時は一瞬でやりとげるのです。ぼくは行動力が無いので素早い行動力に憧(あこ)がれます。

 もう一つは三方ヶ原の戦いです。世間のイメージでは、家康が信玄に大敗したというものだと思います。しかし、それだけでなく、家康は自分の負けた姿を絵師に描かせてそれを自分の教訓にしました。ぼくなら負けたことが悔しいのでそのようなことは思いつきません。さらに、あえて城門を開けて、「空城の計」を用いたので、敵は警戒して城を攻めることはできませんでした。このように家康のすごいところは、「耐える心」と「素早い行動力」、そして、負けてもそこから「学ぶ気持ち」であると思います。

 学ぶ気持ちについては、三方ヶ原の戦いの後、信玄が病死し、武田家が滅びた後、家康は、信玄の旧臣を召しかかえ、信玄の軍法を採用しました。家康は、どんな人でも長所を学ぶことは大切なことだと分かっていたのです。

 家康のもう一つのすごさが「知略(・・)」です。世間では、「狸(たぬき)親父(おやじ)」と評する人がいます。しかし、ぼくはまったくそう思いません。知略があってこそ戦に勝てるのだと思います。

 その代表が関ヶ原の戦いです。家康はこの戦に勝つため工作や根回しなど様々な知略を使っています。

 家康は家を守るため、豊臣秀吉に従います。しかし、秀吉と豊臣家の実力者である前田利家が病死するまでひたすら待ち続けました。そして、秀吉の子秀頼の名を借りて上杉景勝征伐に向かいました。しかし、これは反家康の筆頭石田治部少輔三成を挙兵させるための策だったのです。このように石田の動きを知り尽くしてあえて相手を動かす知略を用いたのです。

 さらに、石田が挙兵したら一転して近畿へ向かい、関ヶ原で石田と対戦しました。この時すでに調略しておいた毛利輝元の家臣吉川広家、小早川秀秋が寝返りました。ぼくならば早く勝ちたいという気持ちで猪突猛進して負けてしまうと思うのですが、家康は勝つためにあらゆる手を使って慎重に戦をしたのです。

 戦後、石田に味方した大名たちの領地を改易(かいえき)したり減封(げんぽう)したりしました。勝っても勝ちにおごらず先のことを考えて行動することは、見習いたいと思いました。

 家康は、ただ天下を取って終わりではありませんでした。税を安くして民の不満を抑えました。そして謀反の疑いのある勢力の領地を改易するなどして政治でも力を発揮しました。家康が考えているのは何十年も先のことです。まるで、先を読んでいる将棋のようで面白いと思いました。

 「耐える」ということは、決して無駄ではないことが分かりました。家康の生涯から分かるように、耐えたら耐えた分、人生が変わることになりました。

 ぼくにとっての兄弟喧嘩は小さなものですが、これから想像できない大きなことに出会うことになるかもしれません。「耐える」ということも忘れないでおきたいです。