第19回「德川記念財団コンクール」家康賞大場

表彰活動

コンクール in 岡崎 第19回「徳川家康公作文コンクール」

家康賞(優秀賞)

家康の遺訓

岡崎市立井田小学校6年  大場 創蒔 

豊臣秀吉が死んだ後、徳川家康はどのような行動をとったでしょうか。

4年生の時の社会のじゅ業で、紅白に分かれ討論した時のことがとても印象に残っています。「豊臣に残るは」と「一か八か反乱を起こすは」に分かれました。ぼくは、「豊臣に逆らうと、家族を殺されるかもしれない。もう家族は失いたくないという思いで豊臣に残ったと思います。」と豊臣に残るはに挙げました。クラスのほとんど豊臣に残るはでした。現実は、豊臣側と命をかけて戦い勝利したと聞き、おどろきました。天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦いだと知りました。先生は、「今とは、死生観が違うからね。豊臣に従って生きるよりも、武士として強く生きるためにこの道を選んだのではないかな。」と言いました。

最近、宿題や片づけをせず、ゲームに夢中なぼくに、歴史好きな母から家康の「い訓」を聞く機会がありました。難しい言葉は多いけれど、自分に当てはめて考えました。その時、4年生の授業の時のことを思い出し、家康の一生をもっと知りたいと思いました。

ぼくの生まれ育った岡崎市には、家康が生まれた岡崎城があり、家康ゆかりの場所があります。岡崎公園の中には、家康館や、有名なしかみ像の石像があり、学校の社会見学や家族とも行ったことがあります。家康の祖先、松平家の菩提寺大樹寺があり、山門からまっすぐ前を見ると岡崎城が見える家康と深いつながりを感じるお寺です。

隣町の豊田市松平郷に祖先の松平家があり家康を知るヒントがあると思い、行きました。

高月院には、家康が植えた大木のしだれ桜や、家光が建立した立ぱな門もあり、祖先を大切にしていたと感じました。

松平東照宮には、産湯の井戸があります。家康が岡崎城で生まれた日、井戸の水を竹筒に入れ、早馬で岡崎城に届け、産湯に用いた記録があります。岡崎城にも産湯の井戸があり、ふたつの産湯の井戸の水を用いて誕生を祝ったのです。松平一族として、大切に期待され生まれたのだと思いました。身近にこんなにすごい人がいたのだと自まんに思いました。

他の武将よりも身近な存在に感じ、ますます知りたいと思い、名古屋の徳川美術館に行きました。印象に残ったのは、「しかみ像」と鹿革の足袋でした。鹿革の足袋はぼくの足と同じ二十三㎝と知り、親近感を覚えました。

「これをはいて戦ったんだ。」と思うと、家康の時代にタイムスリップしそうに感じました。しかみ像の絵は、石像のしかみ像より表情がよく分かりました。勝負に負け、命の危機を感じた時を忘れないよう残したそうです。ぼくは、失敗やいやなことは人に知られたくない、早く忘れたいと思ってしまいます。失敗は成功のもとと考えたのだろうか、すごい人だと思いました。

家康は、6才の時に人質として今川家に行く途中に身柄を織田家に奪われ人質になりました。8才の時に父親が暗殺されると、織田家と今川家の人質交換で19才まで駿府で生活しました。父親も暗殺され辛かったに違いない、岡崎城に戻りたかったに違いないのに、辛抱した忍耐力はすごすぎて想像できません。

ぼくの知っている家康は、二人の僧侶と岡崎に育てられたのだと思います。

人質だった19才までは、今川義元の側近の僧侶で政治家の雪斎という人の教育を受けたそうです。辛抱強さと手堅さ、柔軟な思考はその時期に学んだと思いました。

そして、桶狭間の戦いに負け、大樹寺で自害を決意した時、住職の言葉で再起を誓い、争いのない平和な世の中を作ることを決意したのではないかと思いました。

その後、岡崎城を拠点として、松平一族や家臣を再結成し、三河一向一揆を鎮定し三河国を平定しました。ここから、家康が徳川幕府を制定する道が始まったのだと思います。祖先や一族を大切にし、どんな境遇の時も人との関わりや出会いを大切にし、我慢強く、チャンスを逃さない人だったから、人や運にも救われたのだと思いました。

家康の「遺訓」、「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足無し。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」

この言葉は、家康の歩んだ一生のことのように思いました。苦しく、つらい人質の時期は、天下を平定するための力を養う学びの時だったと感じました。家康の「遺訓」の意味が少し分かり、自分の生活にも生かせるように今後さらに努力したいと思いました。