第18回「德川記念財団コンクール」家康賞中澤

表彰活動

コンクール in 岡崎 第18回「徳川家康公作文コンクール」

家康賞(優秀賞)

三河武士の強さを考える

愛知教育大学附属岡崎中学校2年  中澤 勇作 

『徳川家康公』や『三河の風土』は学校の社会の授業で教わったり、テレビやゲーム等で見聞きしている範囲で理解していたが、今回この作文を書くに際して、数多くの戦国大名の中で、なぜ、徳川家康公が天下統一を成し遂げられたのかを改めて調べてみた。

インターネットで調べてみると、本当にたくさんの説が出てきた。徳川家康公の人徳・リーダーシップ、健康管理を徹底して長生きしたから、三河地方の地政学的な優位性、三河武士と呼ばれる有能な家臣たちに恵まれたから等。その中でも三河武士に関する記録や文書が多くあった。

三河武士とは、徳川家康公に仕えて、江戸幕府成立に貢献した三河国出身の譜代の家臣の総称である。その中でも最も有名なのは、徳川四天王と呼ばれる酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政で、他にも鳥居元忠、大久保忠世なども有名である。多数の三河武士の中で気になったのが板倉勝重である。なぜ気になったのかと言うと、僕の母の旧姓が板倉だったからだ。

僕が岡崎市に引っ越してきたのは、幼稚園の年長時代であるが、母は元々岡崎市生まれである。偶然にも同じ苗字の人がいると思っていたが、念のため、祖父に聞いてみると、その板倉勝重は祖先であるとのことだった。

板倉勝重は、幼少期は僧侶であったが、父および、兄弟が相次いで戦死したため、徳川家康公の命令で板倉家を継いだ。駿府町奉行や、関東移封後は江戸の町奉行などを歴任した。関ヶ原の戦い以降の1601年(慶長6年)京都町奉行(後の京都所司代)、1603年(慶長8年)江戸開幕に伴い、伊賀守に任命され、政治的手腕を発揮した。対朝廷対策や近畿の民政にも細部にわたって関与した。また、大阪で存続していた豊臣家をはじめとする西国大名の統制なども担当していたとのこと。特に京都町奉行、京都所司代時代の裁判では、優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行と呼ばれていたそうだ。

板倉勝重の主たる功績は、徳川家康公が天下統一を果たした1601年以降であるが、三河武士として、主君である徳川家康公の命に従い、戦闘ではなく、京都所司代という政治的色彩が濃い難しい役割を果たした。

この板倉勝重の功績で気付いた点がある。それは、三河武士団の強さは、戦闘に勝って領土を拡大するような武士個々の戦闘力だけではなく、与えられた役割を全うする点にあるのではないかと言うことだ。これは、それぞれの武士の性格や得手不得手と言った特徴と、それを把握した上で役割を与える徳川家康公の管理能力と併せて、人員の適材適所が三河武士団の強さではないかと感じた。

適材適所を実践できるのは、個々の個性を把握できているからであり、また、その役割を果たす動機は、主人への忠誠心があるのだと思う。個性の尊重は、昨今よく耳にするダイバーシティー(多様性)と同じであると感じた。

400年前も現在も、時代が移り変わっても大切にしないといけない事柄は変わらないのだと思った。

400年前に個性を尊重し、多様性を認めた徳川家康公。彼が生まれ育った岡崎市に住んでいる僕たちは、その重要性や有効性を十分理解し、普段の生活で実践していかなければならないと感じた。