第18回「德川記念財団コンクール」家康賞碧海

表彰活動

コンクール in 岡崎 第18回「徳川家康公作文コンクール」

家康賞(優秀賞)

不自由を常と思えば

岡崎市立六ツ美中部小学校6年  碧海 慧太 

ぼくの家は慈光寺というお寺です。奈良時代から続いているお寺で、父は56代目の住職です。山門の横にあるお寺の説明の看板に「家康と姻戚関係」と書いてあります。「姻戚」というのは遠い親戚ということだそうです。家紋も三葉葵が使われています。神様になった家康の像がまつられています。だから、すごい人と親戚関係だったんだなぁとおどろきました。しかし、父が、
「家は、最初は敵だったんだよ。」
と言いました。ぼくはびっくりしました。
「なんで敵だったの。」
と父に聞きました。
「一向一揆だよ。」と教えてくれました。そこでぼくは、一向一揆について調べてみました。
 一向一揆は、戦国時代に浄土真宗の本願寺(一向宗)の信徒たちが起こした権力に対抗する戦いで、全国各地で起こっていたそうです。

 1563年に岡崎や隣の安城でも家康に対して一揆が起こりました。この戦いは半年間続きました。家康の家臣の中にも一向宗の信者が多くいたので、家康は家臣のうらぎりにあいましたが、最後は家康が勝利しました。

 この時負けた一向宗は改宗するよう言われました。それをこばんだお寺は追放されました。もちろんうちのお寺も追放されたそうです。その後、家康のおばさんが家康を説得されて、20年後に許してもらい岡崎に帰ることができました。改宗はせずにそのまま、お寺を建てたそうです。家康のおばさんは家康の乳母をしていた人で、うちの40代目の住職の妻の祖母に当たる人です。

 ぼくの思っていた関係と全然違っていてびっくりしました。20年も帰ってくることを許されないのは、かなり家康を怒らせてしまったのだなと思いました。

 三河一向一揆の後、家康はうらぎって一向宗側についた家臣もまた家臣としてやといました。自分をうらぎった家臣を許せる家康はすごいなと思います。ぼくなら、またうらぎるのではないかとうたがってしまいます。

 うちも現在まで浄土真宗のお寺としてあるのは家康の心の広さにあるのかもしれません。家康からもらったお茶わんや書状などがお寺に残されています。ずっと敵のままなら、これらは残されていないので、うちも家康と関係を修復できてよかったなと思いました。

「不自由を常と思えば不足なし」という家康の言葉があります。物事や人は思い通りにはあるいかないものがあたりまえで、そう思って前に進めば不満は生まれなくなるという考え方だそうです。だから、思うようにならなかった家臣でも、家康は許すことができたんだなと思いました。

 家康は、小さいころ、ずっと人質として生活していて、とても辛かったそうです。きっと不満をあげたらきりがなかったと思います。

 今、ぼくたちはコロナで普通の生活を送ることができません。ぼくは、
「夏休みなのにどこにも遊びに行けない。」
と、不満を言っていました。不満を言うのではなく。これが当たり前と思い、ここで何か楽しいことを探せばいいのだと思うようにしました。出かけられなければ、家で楽しむことを考えようと思いました。

そこで、「うどん」を作ることにしました。強力粉と水と塩をこねて、ふむだけでできました。とても美味しかったし、家族も喜んで食べてくれました。

 家康とうちとの関係を調べたことで、德川家康を知ることができました。そして、家康の言葉を知り、不満でいっぱいのふだんの生活を少しだけ楽しく過ごすコツも教えてもらいました。

不自由をあたりまえにするのは難しいけれど、考え方を少しだけ変えて楽しく過ごせるようにしていきたいです。