第18回「德川記念財団コンクール」德川賞海老澤

表彰活動

コンクール in 岡崎 第18回「徳川家康公作文コンクール」

德川賞(最優秀賞)

ピンチはチャンス!

岡崎市立井田小学校5年  海老澤 亮誠 

日曜日の夜8時、僕はばたばたと夜ごはんやお風呂、野球の自主練をすませ、定位置のソファーに飛び込む。セーフ。楽しみにしている大河ドラマのスタートに何とか間に合った。去年に引き続き、今年も大河にくぎ付けだ。なぜって、僕の好きな家康公が重要なポジションで登場してくる。辛抱強く、思りょ深い。ぜいたくは好まず、地道な努力で天下を統一した家康公と故きょうが同じであることが、ますます誇らしく胸を張りたい気持ちになる。

家康公は、幼い頃から人質生活を送り、忍耐強さを身に付けたことは有名である。しかし、260年もの長きにわたり、平穏な国を治める幕府の基ばんをきずいたのには、それ以外の要素もあるのではないか、と考えた。その時、我が家の和室にかかげてある家康公のい訓が目に留まった。

「こころに望みおこらば、困きゅうしたる時を思い出すべし」「負くること知らざれば害その身にいたる」。家康公は、困きゅうした時や、戦に負けた時、いわばピンチを決して忘れず、常に自らのいましめとしていたのだ。

では、家康公の人生においてのピンチとは何だったのか。ぼくは、それを調べることを今年の自由研究の課題に決めた。

家康公の人生最大のピンチ。それは、「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀ごえ」、の三つではないかと思った。死と隣り合わせの苦境に置かれながら、家康公はその後の自分を支える何かをつかみ取ったに違いない。

ぼくはまず、上和田町にある浄珠院を訪ねた。そこは、一揆の際、家康の本陣が置かれたところであり、終結に向けての和議が行われたお寺だ。まだ二十歳を少しこえたばかりの若い家康にとって、多数の重臣が信仰の力で敵方に付くという苦しみの中で、劣勢になった敵側が、理不尽とも言える和議の条件を持ち込んだという。多くの大切な家臣を失った家康公は、最初はこの条件をすんなりと受け入れることはできなかったようだ。しかし最終的に、家康公はこの条件をのみこんだ。その時の家康公の気持ちはどれほどのものだったであろうか。想像するだけで家康ファンのぼくとしては、奥歯がぎりぎりと鳴る思いだ。しかし、この時に家康公は、「許す器」を自分の中に作ったのではないだろうか。い訓にもある。「怒りは敵と思え」と。裏切られた悲しみ、理不尽さに対するわき上がる怒りを腹の奥底にしまい込むことで得た「許す器」ではなかったであろうか。

次に僕は、本宿町にある法蔵寺に向かった。そこは、「三方ヶ原の戦い」で大敗をきっし、多くの家臣を失った家康公が、家臣たちの墓を作り弔ったとされている。

本堂の左わきを通り抜けてたどり着いたところには、ひっそりと墓石が並んでいた。手を合わせながら、ぼくはふと、家康公に仕えた家来たちは、幸せだったのではないか、と思った。法蔵寺は、家康が幼いころに手習いをした縁の深いお寺だそうだ。子供時代の思い出のある大切な場所に、戦で失った大切な家臣のお墓を作る家康の心の温かさを感じたのだ。

また、三方ヶ原の戦の後に病死した武田信玄だが、その一報を聞いて喜ぶ家来たちを、家康は、「敵とはいえ立派な武将であった」といさめたという。敵も味方も戦が終わった後は、ノーサイド。そんな「人を大切にする心」を二度目の大ピンチで身に付けたのではないかと感じた。

最後のピンチである「伊賀ごえ」。本能寺の変当時、大阪の堺見物をしていた家康公には、ほんのわずかな家来しかいなかった。混乱のさなか、三河岡崎に帰るのは、不可能だと判断し、一時は自害も覚悟したと言われている。しかし、家臣の助言に耳を貸し、様々な人々の助けを借りながら、危険極まりない伊賀国を何とか通り抜け、伊勢湾を経て岡崎城にたどり着けたのは、奇跡だったようだ。もし家康公が、自分の意志だけで突き進む人物であったら、岡崎の地には戻ることはかなわなかったであろう。この頃には、有力武将になっていた家康公だが、人の意見を「傾聴する姿勢」をもつ謙虚さを身に付けて、天下平定の道へと突き進んだのではないかと感じた。

「人を許す器」「人を大切にする心」「人の意見を傾聴する姿勢」、勝負強い家康を支えるのは、謙虚で温かなこの人間性であり、それを作ったのはまさにピンチに対面した時であったのだ。

なんだかむくむくと勇気がわき起こってきた。野球が大好きなぼく。ピッチャーを目指しているのだが、目も当てられぬ最近のコントロールのおかげで、すっかり登板チャンスに恵まれない。違うポジションにつきながら、マウンドがどんどん遠ざかっていく絶望感を感じていた今年の夏の始まり。でも、今のぼくは違う。流れる汗も気にせず、自主練に励む。そう、あの家康公だって、数多のピンチを歯をくいしばって乗り切ったからこそ天下人となりえた。

「ピンチはチャンス!」

そう心で叫んで、ミット目がけて白球を思いきり投げ込んだ。