表彰活動
コンクール in 岡崎 第17回「徳川家康公作文コンクール」
德川賞(最優秀賞)
「家康公と本多忠勝」
愛知教育大学附属岡崎中学校2年 川嶋 風香
270年続く江戸幕府を開いた家康公。その天下統一を支えた家臣たち、中でも三河武士であり徳川四天王の一人である本多忠勝に、私は注目しました。
本多忠勝は、家康公と同じ岡崎で生まれ、幼い頃から家康公に仕えてきました。13才の時に初陣を果たし、57度に及ぶ戦いの中で、一度も傷を負わなかったということで有名です。
家康公と織田信長が同盟を結んだ時、織田の城下で家康公をはやし立てようとした者たちを、忠勝は
「無礼であろう。」
と一喝したそうです。その剣幕に、その場にいた皆が静かになったようです。家康公は、これをたしなめたと言われていますが、うれしかったに違いありません。
私は、どうやっても、こんなふうに他人のために心から怒り、怒鳴ることはできません。こんなことができる度胸もそうですが、その厚い忠義心も、簡単に持てるものではありません。逆に、こうやってかばってくれる人がいたら、誰でも心強くなるでしょう。
それだけではありません。武田氏を滅ぼし、安土の城に帰る途中織田信長は、迎え出た本多忠勝を、自分の家臣の前で「花も実も兼ね備えた武将」とたたえ、家来に欲しがったのです。忠勝は、それを「私は家康の家臣なので」と鮮やかに断ったそうです。信長も、その潔さにあきらめたと言われています。
さらに、秀吉も、小牧長久手の戦いで、秀吉のおよそ三万の本隊に対して五百の兵で挑んだ忠勝を見てほれ込み「あのような勇者、討つべからず」と家来に命令したそうです。その後、秀吉は忠勝を呼びよせると、数々のほうびを与え「東国の天下無双の大将」とたたえ、家来にと誘いました。これも、忠勝はきっぱりと断ったそうです。
また、天下無敵と言われた武田騎馬隊が、立派にしんがりの役を果たした忠勝の強さに驚き「家康に過ぎたるもの二つ。唐の頭に本多平八」と立て札を立てた話も有名です。
もし私が、忠勝と同じ立場であったならどうでしょう。私は、自尊心が強いわけでも、薄情なわけでも決してないと思います。ですが、名だたる武将たちにここまでほめたたえられたら、うぬぼれてしまうような気がします。自分をほめてくれる、より武力のある大名へ鞍替えし、主君である、家康を裏切ってしてしまうかもしれません。しかし、忠勝は、一途に、忠実に、家康公の下で仕え続けました。
なぜ、忠勝はそこまでして忠義を尽くしたのでしょうか。
その理由は、家康公にもあると思います。
もし、忠勝の主君が家康公でなかったら、どうなっていたでしょうか。主君である自分をさしおいて活躍し、他の権力者に認められ、気に入られる。そんな忠勝に嫉妬(しっと)し、うとましく感じてしまうのではないかと思います。もしかすると、つらくしてしまうかもしれません。家康公が、鷹揚(おうよう)な構えと高い志を持っていたからこそ、忠勝を受け入れ、また忠勝も忠義を誓えたのだと思います。家康公が並々ならぬ強い心の持ち主であったからこそ、天下統一を成し遂げ、戦乱の世を終わらせることができたのだと思います
人は、一人では生きていけません。その存在があるだけで強くなれるような、信頼できる人。家康公にとって、忠勝はそんな存在だったのだと思います。単純な主従関係ではなく、強固な信頼と友情が築かれていたと私は感じました。
私も、何かを成そうとする時、互いに信頼し合える人がそばにいたら、自信を持って事を進められると思います。
そのためには、私自身が、家康のような鷹揚(おうよう)な構えと高い志を持つことが大切です。そして、忠勝のように人を信頼し助けることができる人物になることが大事だと思いました。