表彰活動
コンクール in 静岡 第4回「徳川記念財団コンクール」
德川家康賞(優秀賞)
「安倍川の流れを変えた徳川家康公」
静岡市立安東中学校1年 西村 羊詩
私の家の側に十二双川という川が流れています。この川は家康公が駿府城を造るとき、石材を運ぶのに沈まないよう、船十二双を組み合わせて運んだことから、そう呼ばれています。今は、幅二メートルもない小さな川ですが、かつては大きな川だったということが、名前からわかります。江戸時代の川や道や家などの位置を想像するのは、写真もなく大変むずかしいのです。おそらく私の家も、十二双川の一部で水が流れていた場所かも知れないと思います。
さて、今年の夏は西日本で大きな洪水が起き、多くの人々が避難所で暮らしています。現代でも、洪水の恐ろしさは写真や映像で、十分伝わります。ましてコンクリートなどの土木技術がない時代には、もっと恐ろしかったのだと思います。家康公は大御所として、駿府の町に入ると、安倍川の流れを変えて、洪水を防ぎ、人々が農業の生産力を上げられるようにしました。十七世紀の初め、関ケ原の戦いで敵だった薩摩藩を許し、その藩主である島津忠恒に命じて堤防を造らせ、洪水を防ぎました。調べに行くと、一部の七百メートル程は薩摩土手と呼ばれ、現在の井宮町に残っていました。薩摩土手は元々、中野新田まで四キロメートル以上ある土手だったそうですが、今から六十年程昔の昭和三十年に町を広げるために削られ、薩摩通りに変わっていました。大正時代に湯浅堤という現在の堤防が築かれ、薩摩土手は必要がなくなったようです。
安倍川の流れを変えるというのは、簡単には想像できませんが、現在の安東や安西の地名から江戸時代以前の安倍川の流れが想像できます。安西は安倍川の西で、安東は東の土地、現在の安倍町がその安倍川の流れだったようです。他の地名からも安倍川の流れが想像できます。現代のテトラポットの役目を果たす蛇篭のおかれた所が籠上です。浅間神社の辺りから多くの支流に分かれ、静岡駅の南には稲川、馬淵、見瀬といったかつて川だったことを表す地名があります。さらに南には中島、西島、下島といった川にはさまれたことを示す地名もあります。網のような安倍川は洪水の度に静岡平野で流れを変えながら駿河湾に流いでいたようです。とても恐ろしいことではないでしょうか。 しかし、家康公がその安倍川の流れを薩摩土手により藁科川と合流させ一つにしたことで、駿府の町の人々は安心して暮らすことができました。そして駿府は、江戸時代の大都市に発展したのだと思います。
これらのことから家康公は、大勢の駿府の人々のために自分の権力を使われたということが、とてもよくわかりました。人間は自分が権力をもつと、自分だけのために使いたがるのが普通です。けれども、家康公はそれをしませんでした。それは生涯、家康公が民のことを考え続けていたからこそ、人々を守るために、己の権力を使った行動ができたのだと思います。「民を守り安全と豊かさを与えたい」そういった家康公の思いは、子供の頃学問などの教えを受けた太原崇孚雪斎を初め、生涯を通して出会った多くの人々から吸収したものであったと思います。
また、その時代の静岡の人々だけでなく、四百年以上の時を超えた今日まで、多くの人々の命と財産を守ってきてくださった家康公と安倍川の流れを変えるため、実際に工事にあたった薩摩藩の人々に対して感謝の気持ちを伝えたいと思います。