第5回「徳川記念財団コンクール」德川賞

表彰活動

コンクール in 静岡 第5回「徳川記念財団コンクール」

德川賞(最優秀賞)

「三方原合戦から分かったこと」

浜松市立開成中学校1年  加藤 優佳

浜松城…私にとって最も親しみのあるお城。幼い頃には遠足で遊びに行ったし、自由研究のために調べに行った。いつの頃か、浜松城は出世城と呼ばれていることを知った。歴代城主の多くが、幕府の要職に登用されたためとか。

 学校の授業で習ったイメージからすると、浜松が歴史上栄えていた、という印象はない。日本の中心は京都、奈良、大阪という感じだ。なぜ、そんな浜松から優れた人材が何人も輩出されたのか?気になったので調べてみた。

 結論からすると、浜松城主を勤めたから出世したのではなく、出世するような人が城主を任されてきた、というようなことが分かってきた。浜松城主を勤めた人は二十五人いたらしい。私が知っている名前もあった。天保の改革で有名な水野忠邦だ。彼はなんと、自ら進んで浜松城主になったそうだ。天下統一を果たした徳川家康にあやかって、という理由だったと言われている。

 初代城主であり、人から“あやかりたい”と思われた家康、どんな人物だったのか?

 小学校の運動会で、三方原合戦という競技があった。徳川軍と武田軍に分かれて、騎馬戦、棒引き、玉を投げつける城落としを行い勝敗を決める、というもの。私の家から祖母の家へ向かう途中、三方原古戦場の跡地とされる三方原公園があることもあり、三方原合戦という言葉は、なじみある言葉だった。

 この三方原の戦い、家康にとっては人生において唯一の大敗だったと言われている。三方原合戦について調べていくと、家康が“あやかりたい”と思われた理由が少し解った気がした。有名な話として、家康には多くの身代わりとなる家臣がいたおかげで浜松城まで逃げられた、という話。敵が追いかけてきているにも関わらず、後から逃げてくる味方のために城門を開放して、昼のように篝火を焚き上げたという話。二つの話からは、家臣が家康を思い、家康が家臣を思うという互いが互いを命を懸けて思っていたことが分かる。東の今川、西の織田に挟まれた苦しい戦国時代は、この深い絆のもと、一丸となれたからこそ乗り切れたのだと思う。ただ、家臣が命を懸けて殿を守るということは、当時は当たり前だったかもしれない。そういう時代であればこそ、殿が自身に危険が迫っているのを承知で家臣を思っての開門、という行動は非常に珍しかったのではないか?敗戦はしたが家臣からの信頼は、更に深まったと思う。

 敗戦を、ただの敗戦としなかったことも、家康が人の上に立つ者として慕われる点だと考える。後に天下分け目と言われた関ケ原の戦い、佐和山城を攻めると見せかけて三成を関ケ原へ誘い出すという、三方原で武田信玄に仕掛けられたことから学んだきつつき戦術をここ一番で活かした。勝利した家康は、事実上の天下人となり、その後三百年近く続く、日本に平和をもたらす幕府を作ったとされる。

 八月八日付けの静岡新聞に、浜松市特有の運動会種目「城おとし」と音楽祭を融合させた夜間フェスが計画されているという記事があった。浜松が誇る郷土の武将家康が、人生で唯一の大敗、大勝利した戦いならともかく、過去から消し去りたい戦いの筈なのに、四百年たった今も、運動会やフェス、子どもから大人と世代を超えて幅広く受け継がれている。

 ただ、惨敗しただけの戦いなら、ここまで受け継がれなかったのではないだろうか?

 敗戦の惨めさよりも、家康の家臣を思う人柄、失敗を次へ活かす賢さ、そういう人間だったからこそ後に全国の大名を従え今の日本の基礎を作れたのではないか、という「あやかりたい」と思わせる家康の魅力の方が、人々の印象として受け入れられているのだと思う。敗戦なのに今なお三方原合戦がテーマとして上がるのは、時代を超えて家康の言動が教訓、憧れとして受け入れられているからだろう。

                              (了)