福沢諭吉の家康公礼讃   服部禮次郎

服部禮次郎

　明治の新時代に民間指導者の一人として活躍した福澤諭吉は、西洋文明導入の旗振り役であって、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといえり」と説いていた人物であるから、幕府の治世･徳川時代の制度文物などに対しては、定めし低い評価を下していたに違いないと思い込む人も多いと思われる。

　ところが意外なことに、福澤は機会あるごとに「徳川治世二百七十年」の善政を紹介して褒めたたえ、「徳川家康公は古今無比の英雄」と持ち上げている。この論旨は福澤一流の歴史観、文明論に基づくものであるが、一面では明治政府に対する痛烈な批判をこめたものであった。

　広く知られているように、江戸では毎年八月一日は八朔（はっさく）ととなえて天正十八年の家康公入府を祝う日とされており、江戸っ子は「江戸では八朔といえば正月よりめでたいのだ」と威張ったという話も伝えられている程である。明治二十二年八月二十六日は旧暦の八月一日であったが、その日は家康公入府三百年にあたるので、東京府下の有志者が記念式典を催すことを企画した。ところが、その発起人のなかに、「この記念式典は帝都東京開基三百年祭と位置づけるべきであって、徳川家康とは結びつけない方がよい」といい出す人があって、なんとなく現政府（明治政府）に媚び憚って前政府（徳川政府）の創業者（徳川家康）をうとんじる風が見えてきた。福澤は黙っていることが出来ず、猛烈にこれに噛みついた。自身が主宰する時事新報の紙上に福澤は「東京三百年祭会」という論文を掲げて論陣を張った。

　福澤は先ず、家康排除論者は「今の日本は文明の新日本なり。旧幕時代の事物はすべて見るに足らず、すでに見るに足らざれば其の幕府を立て其の世を治め、其の都会を聞きたる家康の如きも、今となりては其の人物を景慕するに足らず」と思っているのであろうと極めつけ、それは歴史の真相を知らぬ浅はかな奇論に過ぎぬと論じている。福澤によれば、およそ国勢の推移変遷は自然の勢いによるものであって、政事の主義には絶対至善のものがあるわけはない。王政の時には王政の美がある。幕政の時には幕政の善がある。また文明政治の時代になれば文明の利益もあるであろう。すべてその時代の時勢に応じて治安を維持し、人文を妨げずに政治を布いている政府は『良政府』と称するべきである。この点から徳川の治世を見れば、其の宗祖家康将軍は古今無比の英雄であって、世界中の歴史においても功を競うものはないであろう。「身は戦国の最中に生れて善く辛酸を嘗め、百戦捲まず群雄の鋒を挫き、またその人心を収攬し」「幕府の基を開き」「元和偃武」「徳川の治世二百七十年間兵乱の凶事を除き、一方に国民の元気･人文の如何を観れば、治国安民の注意怠らざる所なく」「文芸技芸殖産の事業より衣食住の快楽に至るまで二百七十年間進むあるを見て、退きたることなし」。これが福澤の徳川治世観である。

　それでは、何の動機で、三百年祭は家康に関係なしなどという暴論を唱えるものが出て来るのであろうか。福澤は「この論者は現政府は徳川政府にとって代った政府だから、徳川のことは一も二もなく『禁句』であろうと思って、政府に媚びようとしているのであろう。そうだとすれば、それは賤丈夫の臆病というべきで日本男子のことに非ず」と切り捨てている。

　福澤の政権交代論は淡々としている。「成る程、現政府は徳川にとって代ったものに相違ないが、政権の新陳交代は政事の常であって優勝劣敗は怪しむに足りない。徳川は其の末年に至って政府を維持する実力を失い、強藩の強なるものに倒されただけのことである。即ちそれは実力の爭いであって、無力者は戦死しまたは降参し、有力者は先代に代って政権を獲得した。この交代で事が終れば、もはやその上には何らの事情をも留むべきでない。」これが福澤の持論であった。

　福澤は、これだけ書いてもまだ腹の虫が納まらなかったと見えて、翌年明治二十三年には帝国議会の発足にあたり「国会の前途」と題する長い論文を発表し、徳川の治世は決して民を苦しめた圧政専政の時代ではなく、徳川二百七十年の善政があったからこそ、明治新政わずか二十余年で国会開設が可能になったのだということを論証している。

（当財団評議員）

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