インターネット展示
徳川家定夫人敬子(天璋院)消息 和宮宛
天璋院の手回り箪笥の引出しに収められていた消息。和宮からの書状と共に「御まな(真魚)」を贈られた御礼を申し入れ、本寿院(家定生母)へ年始の挨拶の伝言を依頼している。
本寿院書状 天璋院宛
本寿院が熱海・箱根湯治中の天璋院に宛てた書状。75歳の本寿院は、天璋院が旅立った後は心細いと述べ、畑でとれた長茄子を天璋院に食べさせたいという心遣いも見せた。
徳川家康自筆消息 徳川秀忠夫人浅井氏宛
秀忠夫人から大地震の見舞いをもらったことへの返書。慶長元年(1596)閏7年に畿内を襲った地震の際に、家康・秀忠は伏見にいた。この年5月に家康は正二位内大臣に昇進しており、「内府」と署名している。
篤姫縁組につき内意書写 島津斉彬宛
登城した島津斉彬へ示された篤姫縁組についての内意書写。将軍との縁組は、広大院(11代将軍家斉の御台所)の先例に則り、近衛家の養女として入輿するようにと仰せ出された。同様の文意は老中阿部正弘から近衛忠煕へも伝えられ、忠煕は養女について承諾した。
徳川家定領知判物 南禅寺宛
将軍代替わりに際して、新将軍となった徳川家定から発給された領地安堵状。安堵状の発給は、新将軍が歴代将軍の正統な後継者であることを確認する行為で、武家諸法度の発布と同様に代替わりの重要行事であった。署名には家定の花押が据えられる。
照国神社総研に関する書状(川辺式部書状 岩下佐次右衛門宛)
島津斉彬は、安政4年(1857)7月50歳で急死した。天璋院は斉彬の7回忌にあたる元治元年までに斉彬を祭る神殿を建設するようにと願っていたが、本書状は、南泉院下明神へ斉彬を祭神とする照国神社が創建されたことを天璋院に伝えるようにと記している。
徳川家達書状 天璋院宛
十六代家達が天璋院に宛てた自筆消息。数え年7歳の家達は前日天璋院から何よりの御品を戴いたことに対して御礼を述べ、本寿院様(十三代家定生母)にもよろしくと伝言を依頼している。
徳川(田安)慶頼書状 徳川家達宛
家達に宛てられた実父徳川慶頼の書状。旧田安寮の領民から蒲団が届いたので差し上げたい、天璋院へも進呈したいのでよろしく伝えてほしいとある。徳川宗家や天璋院は、明治以降も慶頼ら一門に支えられ生活を送っていった。
天璋院書状 徳川泰子宛
熱海滞在中の天璋院から家達夫人の泰子へ宛てた書状。熱海への保養は家達の勧めによるとあり、運動に勤しむ晩年の天璋院の姿を伝える。保養や運動の甲斐なく、天璋院はこの年11月に病に倒れ、帰らぬ人となった。
消息「千姫宛」東福門院筆
東福門院から長姉千姫(天樹院)への年賀消息。文中に「さまのかみ(左馬頭)もおとなしく」とあり、家光の次男綱重が左馬頭と称す承応2年8月から天樹院が歿する寛文6年2月までの間に書かれたものと考えられる。
天璋院の手回り箪笥の引出しに収められていた消息。和宮からの書状と共に「御まな(真魚)」を贈られた御礼を申し入れ、本寿院(家定生母)へ年始の挨拶の伝言を依頼している。
本寿院書状 天璋院宛
本寿院が熱海・箱根湯治中の天璋院に宛てた書状。75歳の本寿院は、天璋院が旅立った後は心細いと述べ、畑でとれた長茄子を天璋院に食べさせたいという心遣いも見せた。
徳川家康自筆消息 徳川秀忠夫人浅井氏宛
秀忠夫人から大地震の見舞いをもらったことへの返書。慶長元年(1596)閏7年に畿内を襲った地震の際に、家康・秀忠は伏見にいた。この年5月に家康は正二位内大臣に昇進しており、「内府」と署名している。
篤姫縁組につき内意書写 島津斉彬宛
登城した島津斉彬へ示された篤姫縁組についての内意書写。将軍との縁組は、広大院(11代将軍家斉の御台所)の先例に則り、近衛家の養女として入輿するようにと仰せ出された。同様の文意は老中阿部正弘から近衛忠煕へも伝えられ、忠煕は養女について承諾した。
徳川家定領知判物 南禅寺宛
将軍代替わりに際して、新将軍となった徳川家定から発給された領地安堵状。安堵状の発給は、新将軍が歴代将軍の正統な後継者であることを確認する行為で、武家諸法度の発布と同様に代替わりの重要行事であった。署名には家定の花押が据えられる。
照国神社総研に関する書状(川辺式部書状 岩下佐次右衛門宛)
島津斉彬は、安政4年(1857)7月50歳で急死した。天璋院は斉彬の7回忌にあたる元治元年までに斉彬を祭る神殿を建設するようにと願っていたが、本書状は、南泉院下明神へ斉彬を祭神とする照国神社が創建されたことを天璋院に伝えるようにと記している。
徳川家達書状 天璋院宛
十六代家達が天璋院に宛てた自筆消息。数え年7歳の家達は前日天璋院から何よりの御品を戴いたことに対して御礼を述べ、本寿院様(十三代家定生母)にもよろしくと伝言を依頼している。
徳川(田安)慶頼書状 徳川家達宛
家達に宛てられた実父徳川慶頼の書状。旧田安寮の領民から蒲団が届いたので差し上げたい、天璋院へも進呈したいのでよろしく伝えてほしいとある。徳川宗家や天璋院は、明治以降も慶頼ら一門に支えられ生活を送っていった。
天璋院書状 徳川泰子宛
熱海滞在中の天璋院から家達夫人の泰子へ宛てた書状。熱海への保養は家達の勧めによるとあり、運動に勤しむ晩年の天璋院の姿を伝える。保養や運動の甲斐なく、天璋院はこの年11月に病に倒れ、帰らぬ人となった。
消息「千姫宛」東福門院筆
東福門院から長姉千姫(天樹院)への年賀消息。文中に「さまのかみ(左馬頭)もおとなしく」とあり、家光の次男綱重が左馬頭と称す承応2年8月から天樹院が歿する寛文6年2月までの間に書かれたものと考えられる。


